くるくるの思考・価値観・感想

暮らしの中のモヤッを減らせたらなぁと書いてます。でも主観です。1児の母です。

評価や感想が承認欲求というプレッシャーになるのは嫌だなあ

コンディションの不調で更新が滞ってしまったのが悔しいですが、涼しくなってきたこともあり少し気分も晴れますね。

健康は大切だと痛感しますね。

リハビリがてらにまたちまちま更新したいものです。

偶然どなたかの参考になれば嬉しいものです。

 

 

今回のテーマは『最低限の基準・目標が高くなっていないかな?』にしてみます。

自分の最近の悩みにも直結する気がするので良いかな、と。

 

 

人は日々どんなことを目標に日常のモチベーションを維持しているのかな、と想像したりします。

具体的に自分のことを振り返って考えてみます。

 

 

思春期の頃は、とりあえず学校を通いきることでいっぱいいっぱいだった記憶があります。

よくあることですが、大人になった今ふと思い出しては小さな後悔があふれます。

 

学校は毎日通う場所なので、

〇クラスで浮かないように

〇協調性を乱さないように

〇悪目立ちしないように

など、よくある悩みではありますが、わたしにとってはとても深刻な悩みであったため毎日とてもストレスフルでした。

 

こういった悩みは大したことないようで、将来へ大きな影響を及ぼすことを経験としてとても痛感しています。

 

そもそもストレスという言葉から受けるイメージは心理的なものであるという先入観が強いと感じています。

 

心理的ストレスが人のコンディション・子どもの発達にどれくらいの影響を及ぼしているのか、とても不穏さを感じています。

 

学校教育現場についても時代ごとに風潮の変化があると思います。

なので少し古い考え方になってしまうかもしれませんが、懸念があるので書いてみます。

 

学校生活においてダイレクトに自分の心に影響するだろうことでパッと浮かぶものをあげます。

『成績』

『交友関係』

『部活動などの成果』

 

どれもに共通していることは評価が目に見えてしまうことだと思います。

 

 

他者評価について必要以上に不安や強迫観念がわいてしまう要因として深刻な問題だと考えたりします。

 

近年、SNSを通していろんなキラキラした写真や成果を眺めることが日常化してると思います。

自己肯定感の低下や承認欲求増加傾向の原因がここにあると、スマホではなくガラケーで中高生活を過ごした身として思うことがあります。

 

●学校

●クラス

●クラブ

●地域

●各習い事教室

 

 

など、それぞれ現場内の評価のみ実感できる方が良いと思う理由が何個かあります。

 

◎結果を出す人の努力を目の前で見ながら負けることができる

◎自分の暮らしと関わりの無いものに対して必要以上の劣等感を抱かないで済む

 

 

わたしの子供時代にも、たしかにテレビを視聴することで芸能人たちのハイレベルな面を垣間見ますが、あくまで非現実的であり、それぞれの生活にさほど関係の無い遠い世界の話であるという実感はしっかりあったと思います。

 

日々、子どもたちや若者たちのプレッシャーが増しているのだとすればこういった要因があるのかな、と娘のいる母として不安になったりします。

 

そもそも評価とは一定の条件下における数値・指標だと考えます。

一定の条件下における価値観により人の心が圧迫されているのだとすれば、とても勿体ないことと思っております。

 

そもそも思春期は『自我を育てる期間』ですよね。

今風に言えば、『アイデンティティ確立のための期間』でしょうか?

 

子どものうちは失敗して良いという当たり前の常識が薄れている気がします。

もともと成立していなかったとは思います。

それでも常識的価値観として耳にする機会は今よりあったのではないか?と思います。

 

つまり、自分探しのためにある数値的指標により自己喪失危機にあるとすれば本末転倒だと考えます。

 

よりよく生きるための進歩が、恵まれているはずの生活の中でどんどん汚されていくようでとても悲しい現状なのではないか、と考えたりします。

 

こういったことを日常の中でこぼせばそれはきっと

『空気の読めない人』

そう判断されるであろうことは、経験としてかみしめています。

 

それでも心がもやもやするから懲りずにこうやってぽそぽそ呟きたくなるのです。

 

人生は一度きりです。

当たり前なことなのにあまり意識しないまま、日々のプレッシャーに押しつぶされて人生を終えてしまうのは切ないですね。

 

幸せになるためにそれぞれ何が必要なのか。

ひとりひとりの持ち味は違います。

リベラルを目指しているはずの世界で、多種多様性の尊重と同時に個々という概念が薄れていくような恐怖を感じるわたしは問題を飛躍している悲観的な人間に該当してしまうのかもしれませんね。

 

ひとまず、落ち込むくらいならあまりSNSをみないで過ごせばいいと大人としては思うのです。

日々目の前に迫るタスクに真剣に取り組み、目の前で直接言葉を交わせる相手とのコミュニケーションを最も重要視してほしいという考えは古いのでしょうか?

 

実際問題、そういった生活を意識したとしてもストレスに苛まれ思うような結果は得られないことの方が多いとは思います。

それでもどうせ失敗するのであれば、後悔の少ない選択の方が理想的ですよね。

 

 

相変わらずきれいごとばかりを書いてます。

それでもたまに思い出してもらえたら嬉しいです。

そしてそれがどなたかの人生に良いきっかけになるのならばそれがなによりです。

久しぶりの更新なので読んでもらえないかなと寂しい気持ちにもなりますが、すこしでもどなたかの目に映れば幸いです。

ありがとうございました。