短い記事です。
気軽にお目通しいただけると嬉しいです。
無意識に持ってしまう義務感、いわゆる自分ルールについて考えてみます。
わたし自身、周りと比較することは苦手なものの自分の内にある基準に振り回されることは多いです。
意識的に目標を定めているのであれば安心感もあります。
でも無意識に「こうあるべき」という思いに強くとらわれてしまうと窮屈で苦しいです。
自分の無意識下における固執した目標に気づくきっかけがありました。
その目標に歪さを見出し、紐解いていくと空虚な目標だったと気づきました。
個人的な話にはなりますが具体的に書いてみます。
わたしは価値観や性格がだいぶ違う親や兄弟を持っています。
一時期ではありますが、彼女らに認めてもらいたいと思ってしまっていました。
わたしは彼女らの価値観に見合う土俵へ自分がのぼることさえできれば認めてもらえるんじゃないかな?と期待していたようです。
そうして自分の価値観とはズレのある目標をつくっていきました。
わたしは多様性の中にそれぞれの良さを見出してみたいと考える傾向がありますが、彼女たちは自分たちの生活に影響のあるものを注視しているわけで、実生活に関係の無いわたしに関心を持つはずが無かったんです。
こう書いてみると、そもそもなぜ認めてもらいたかったのかが疑問です。
わたし自身の課題の解決の糸口を他人に求めてしまうことの危うさも感じますね。
人それぞれの生き方があることを改めて気づかされ、自分の求める思いをみんなが持っているわけではないと、理屈ではわかっているつもりでしたがわかっていなかったことを痛感します。
こういった些細なきっかけが、人のいろんな目標や原動力に影響していることが想像できます。
『人それぞれの価値観がある』
この一言の中に細やかな分岐がたくさんあることを思い知らされます。
今は心のわだかまりも少しずつ薄まっていき、日常を楽しんでいます。
無意識にあった目標から解放されると、自分が本当に求めているものが見えてくるのだと感じています。
もちろんまだまだ試行錯誤の途中です。
こうして感じたことを文章にすることもまあまあ好きですが、音楽や編み物のほうが好きな自分に気づけました。
また変動はあるかもしれませんが、いますぐ人生が終わってしまう可能性がある場合のやりたいことを想像すると、音楽や編み物を動けるうちにトライしておきたいと思ったのです。
日常の中でこなすべきタスクはあります。
その隙間を見つけて、休息と楽しみを満喫したいものです。
そのためにも、自分の中にある『自分ルール』『無意識下における目標』のような思い込みに気づき、意識的に自分の願いを見つけられると、人生楽しくなれるんじゃないかな?と夢見てます。
些細なきっかけが自分の無意識に大きく根付き人生に影響を及ぼすことがたくさんあると考えます。
回避は難しいですが、ちょこちょこと自分の内を見つめなおして、生きやすい・楽しいを見出していければ幸いだと感じます。
個人的な感想にはなりますが、なにか参考になる部分があれば嬉しいです。