くるくるの思考・価値観・感想

暮らしの中のモヤッを減らせたらなぁと書いてます。でも主観です。1児の母です。

親子の興味・関心が違うと切ないときもある

短い記事です。

気軽にお目通しいただけると嬉しいです。

 

 

 

 

親子関係について苦しかった想いを整理するために書いてみます。

今回はわりと私情の強い話になります。

ですが、どこかに参考になる部分があれば嬉しいです。

 

 

わたしは親が苦手です。

感謝は120%しています。

でも人としての嫌悪感が強いです。

 

 

責任ある子育てをしてもらいました。

自立するまでしっかりお世話してもらい、結婚後も助けてもらうこともあります。

 

ここで親から恩恵をいただいている立場にもかかわらずとても失礼なことを言います。

 

『親がわたしの可能性をすべて否定しないでくれれば今こんなに苦しくなかった』

 

わたしは昔から思考を紙に書き出すことをしていました。

それを人に見せることはありませんでしたが、少しずつ書くことに慣れていった気がします。

 

〇人生について

人間について

〇社会について

〇個性について

〇優しさとはなんぞや

〇好き嫌いによる影響

 

いろいろ考えていた気がします。

 

考えるほど孤独を感じ、誰かに共感を求めるようになりました。

高校生くらいの頃、家族に自分の書いた文章を読んでもらいました。

テーマは『幸せについて』だった気がします。よく覚えていません。

ただ、はっきりと覚えている言葉はあります。

「意味が分からないことが好きなのね」

興味ないだけならまだしも、意味すらも否定されたことに深く傷ついた記憶があります。

 

まだ子供だったわたしは、少しくらいプラスの評価をもらえると期待していたためにとても苦しい思いをした記憶がぬぐえないまま今も文字を書いています。

 

わたしはどうすれば自分の考えていることをわかりやすく表現できるようになるのか、何年も試行錯誤を続けました。

でも表現力の問題ではなかったのです。

興味・関心の無さがすべてだったのだと気づいたのもここ数年でのことです。

 

わたしはわからないことに意味を見つけていく習慣が自然と身についていました。

きっと自分にも意味が欲しかったから、周りのものにもすべて意味を見出したいと感じたのだと思います。

 

意味が無いなんて悲しいと思うからです。

意味があれば認めてもらえると信じて進みました。

ただ何に意味を感じるかはそれぞれの価値観に依存するため、価値観の違う人たちにはどういう工夫をしても無意味なのだと何十年とかけて痛感し諦めるに至れました。

 

親に愛されたかったとも思ってなくて、理解されたかった記憶が強いです。

親なりの愛は感じてました。

その愛情の形が自分にとって苦痛が伴っても、親の価値観に基づいた愛であったとわかるからです。

 

自分の価値基準に自信の強い人が苦手になりました。

人の話を聞かない人も苦手です。

自分の意見を話すだけで、意見を押し付けられたと感じる人も苦手です。

意見に同調をだけを求め、相手の意見に興味の無い人も苦手です。

 

 

もちろん相手に合わせて、自分の意見をほんのり混ぜてみたり、静かに相槌を打つだけにすることもあります。

でも苦しさが蓄積されます。

なぜ、自分の考え以外に否定的なのだろうか?

鵜呑みにするのも怖いですが、参考程度に聞いておけばいいのにと思ってしまいます。

 

 

親だって赤ちゃんから大人になるまでたくさんの試行錯誤の末生き残っているわけです。

正解なんてありません。

毒親や親ガチャという言葉も最近耳にしますが、本当に複雑な問題だと感じています。

●社会でできること

●個人でできること

●家庭でできること

●企業でできること

いろいろあるんでしょうが、ちょうどいいバランスなんてまったくわかりません。

神がかった天才でも現れて、世界の仕組みを導いてくれればいいのになあ、なんて想像したりします。

 

 

承認欲求を満たす方法を親に限定する理由は無いのにもかかわらず、今回は親子関係について強調する文章を書いてしまいました。

また別の記事で違った角度から見た話や違った体験についても書いてみようと思っております。

個人の価値観や感情が強く出た文章になり、誤解を招く部分がありましたらすみません。

参考や共感があるかないか程度の気楽な読み方をしていただけるとありがたいです。

 

いつもありがとうございます。