短い記事です。
気軽にお目通しいただけると嬉しいです。
生きる理由って必要かな?
思うところがあるので書いてみます。
思春期の頃、わたしは生きる理由がほしくて苦しかった経験があります。
理由が欲しかったというのも今となっては少し不思議な面があったなあと思うこともあります。
なぜならば、理由なんてなくても生きていけるからです。
では、なぜわたしは理由を必要としたのかについて掘り下げていきたいと思います。
わたしが生きる理由を求めたきっかけと動機について整理してみます。
●日常が辛かった
⇒〇生きたいと思える原動力が欲しい
●何のために生きているのか疑念を抱くくらいに思い詰めていた
⇒〇人生の意義が知りたい
●自分の存在が世の中や周囲の人にとって迷惑な存在な気がしていた
⇒〇生きていて良い理由が欲しい
心の葛藤がさまざまな理由を求めさせました。
日常を送るなかで、人はいろんな葛藤を繰り返します。
その葛藤の一つとしてこういった悩みが出てくることがあるのだと思いました。
ただ、悩みとしては規模の大きいテーマになってしまっています。
一個人がなんとなく悩んでさくっと解決するには難しく感じます。
そもそも日常における悩みは小さなものから大きなものまでたくさんあります。
こうやって振り返っていくと、解決しきれず飲み込んでしまった苦しさの蓄積が正解の無い複雑なものへと悪化させていったように感じます。
生きる理由について、好奇心やポジティブな分析として考えるのであればそれはそれとして楽しい時間になると思います。
でもわたしの感覚として、生きる理由を求める人たちは生きづらさを感じて悩みに導かれてしまうパターンが多いのではないか?と憶測にはなりますが思います。
生きる理由を探すことにも意味深さがあると思います。
ただ、そもそも生きる理由を求めてしまった原因にも注目したいと考えます。
生きる理由を見つけるためにも、それを求めた原動力を把握しない限り、心にしっくりくる理由を見つけることは難しさを増し、こうあるべきだという窮屈さを伴う義務感ばかりが生まれてしまう危険性を感じます。
生きる理由として悩んでいない場合にも、人は自然と自分の思い込みを育みこうあるべきだというレールを生成し、視野が狭くなる傾向は大なり小なりあると考えます。
小さな悩みでも大きくなってしまった悩みでも、誰かに相談できる環境や信頼関係のある人間関係の構築が人生にとって必要不可欠なのだとわたしは感じます。
ちなみにわたしは相談することがうまくなかった結果、自分の中に生まれた思考が視野の狭まった思い込みに進んでいることに気づけないまま泥沼にはまってしまった時期があります。
思い詰めるほど人に話すことは難しくなりますし、話してみても相手の対応にかえって傷つけられ余計に殻にこもりたくなったりしますよね。
生きる理由を見つける作業は可能な限り心が健康な時に行うことがベターだと感じてます。
生きる理由に悩むほど追い込まれる前に少しずつ悩みに対処していければ理想だと思います。
追い込まれてしまった場合考えることを減らし、楽しいことを見つけて心のリフレッシュができれば理想ですが、落ち込んでいるときに気持ちを切り替えることは困難です。
うまくまとめようとするときれいごとのようになってしまいますが、結局は人はお互いを気にかけ自分と関わる相手を大切に扱い、助け合ってのびのび生きていければ理想だなあ、としみじみ思いました。
わたし個人の感想になりましたが、何か参考になる部分があれば嬉しいです。
お時間ありましたらよろしくお願いいたします。