短い記事です。
気軽にお目通しいただけると嬉しいです。
『暗黙の了解に気づけるかどうか』
『空気をうまく読めるかどうか』
曖昧で横暴な基準だなあ、と思う節があるので考えながら書いてみます。
わたし個人の想像なので無責任な内容になります。
不快な点がありましたら申し訳ないです。
暗黙の了解について、気づけて当たり前な常識である風潮を感じます。
実際にほとんどの人がきっちり理解・意識して過ごしているのでしょうか?
ただ単に面倒事を回避するスキル、あるいは力で押し通す強さを持っているから成立しているんじゃないかな?なんて考えてみます。
暗黙のルールを理解せずとも、適応できるバランスが維持されたのだと考えることもできると思いました。
わたしの体験や見聞きしたことを参考に具体例を書いてみますね。
たとえば、
①押しは強いけれど発言が少ない
②押しは弱いけれど発言が少ない
③押しが強く発言が多い
④押しは弱いけれど発言は多い
おおよその傾向としてこの4パターンに人を仕分けしてみます。
○能力や性格が環境に適していると、おそらくどのパターンでも暗黙の了解は守れます。
○能力や性格が環境にミスマッチである場合、
①おそらく逃げ切れます。
②ストレスは蓄積されるものの摩擦は回避しやすいです。
③逃げ切れるかもしれませんが摩擦は起きるでしょう。
④おそらく悪い印象を植え付けられるリスクを持っています。
あくまでわたしの偏見による想像になります。
ただ、これを仮定に考えを進めると一つの可能性が見えてきます。
『暗黙の了解とは、各環境で才能を発揮できている人たちが生み出している流れ』
暗黙のルールという概念がそもそも不思議な表現に聞こえてきますね。
決まりではないけれど、場に適した考えや行動を汲み取って適応する力が必須な風潮が世の中にはあります。
でも偶然流れに乗れただけで自分を正当化している側面があるのでは?と考えます。
これは『運も実力のうち』の話に繋がってくるんじゃないかな?と想像します。
実際に、それぞれの現場にはそれぞれ必要な人材があります。
適材適所にうまく配置されればいいのですが、そう簡単にことは運びません。
人の性格も価値観も能力もさまざまであり、それを正しく分析しうまくコントロールすることは現状無理だと思います。
各々が自分に合った居場所を見つけ出せれば、適材適所が完成しハッピーなはずではあります。
ではなぜ自分に合った居場所を見つけることが困難なのかについて考えてみたくなりますね。
学校は一定の基準を設けて、人々を評価します。
たとえば、学校の成績がその人の評価を支えるのならば、発言の自由度に影響すると考えます。
具体的に言ってしまえば、テストが100点満点のひとの発言とテストが0点の人の発言とを比較したとき、前者を信頼しやすいのが現実だと思います。
でも、ところ変われば信頼が逆転する場合もあると思います。
ところが、社会でまずみんなが一斉に通る道は学校生活です。
学校生活が導く価値観に依存しやすくなることは仕方のないことなのだと思います。
コミュニケーション能力についても成績の高低についても、人の価値を仮決定させてしまう材料になりえます。
生活を維持できる形を整えればいいだけのはずなのに、必要以上に評価に振り回されてしまう現実を感じます。
そもそも集団生活に参加する前に過ごす時間、家庭環境もそれぞれ千差万別です。
いろいろ複合的で複雑な話になります。
話を広げ過ぎたので戻します。
暗黙の了解がわからないとされる人たちは、その環境においては不利な要素があっただけの可能性があると考えます。
つまり暗黙の了解を守れるかどうかについては、正しいとか誤りだとか白黒つけるような明瞭な判断材料ではないと思ったりします。
運に恵まれた人生でどこへ進むのか。
悲運にあった人生でどこまで進めるのか。
立場は逆転しうるのか。
細々とした詳細によって多岐にわたるので考えることは止めます。
「謙虚さって大切だなあ」
としみじみ思いました。
偏見?の強い仮説になりましたが、参考になる部分があれば嬉しいです。