短い記事です。
気軽にお目通しいただけると嬉しいです。
『誰かのためにならなきゃ…』
そういう想いに追い込まれる人もいると思います。
人に尽くすこと自体は素晴らしい行いだと思います。
でも尽くそうとするきっかけや背中を押すエネルギーが気になります。
自分のコンディションが思わしくないのに人のためにならなければ…と感じてしまうのは誤りはないにしろ少々の不健康さを感じます。
そもそも自分のためになるアクションはできているのでしょうか?
誰かの幸せに貢献することも素敵ですが、まず自分自身の幸せを確保することも重要かと考えます。
ここでわたしの経験談を横入れさせていただきます。
わたしは自分に不幸感が強いときほど人の役に立ちたいと思う傾向が強かった気がします。
その頃の気持ちをストレートに書きますと、
『自分と同じような気持ちの人(不幸感のある暮らし)を減らしたい』
そう考えていました。
些細なきっかけのわりに規模の大きいことを考えていたなあ、と今なら思います。
井の中の蛙大海を知らず、でした。
でもそれがわたしの心の支えの一部であったような気もします。
悩んでいるときよく耳にしたのが、
●人にばかり求めるな
●ないものねだりするな
こういった言葉だった気がします。
今振り返って思うこととして、周りの環境と相性が悪かっただけなのですが、その時は自分がワガママなのだと思い詰めて、人に尽くさないと自分の話は聞いてもらえないのだと誤解していた気もします。
幸福感に包まれてなく、かつ周りの意見を受け止めすぎてしまう人はわりと人に尽くさないと自分は幸せになれない、といろんな形で無意識にインプットしてしまうんじゃないかな?と考えました。
自己肯定感・自信など、そういった課題と関わりの深そうな話だと思います。
愛着形成の問題についてなどは勉強不足なので触れませんが、さまざまな複合的な問題が自分を大切にすることから遠ざけてしまうことがあると思います。
人の幸せに貢献したい想いと自分の幸福感への飢餓が混在してしまうことが少々怖いです。
きっかけは些細なことでもどんどん深い傷を増やし、人生に絶望するきっかけに繋がってしまうかもしれません。
人の優しさをうまく活用できる人たちにとっては鴨が葱を背負って来るのに喜んじゃいますよね。
人生の優先順位として、まず自分の幸福を実感できないと人に自分のエネルギーすべてを配ってしまう気がします。
自分のためのエネルギーをきちんと確保できるのであればいいのですが、守るべき幸福の実感が不足すると捨て身になってしまう側面もあると思います。
意識的に捨て身で動いていない場合も多いと思うので、後悔を背負うリスクも高いです。
良かれと思ってのことが、なんのためのアクションだったのかを見失うと虚しい気持ちになりますよね。
わたしは幸福を実感するようになってからは、ものごとに優先順位をつけるのがうまくなりましたよ。
なにを大切に生きていきたいのか、これがわかると欲張っても守るべき優先順位がわかるので迷子になりづらかったり、エネルギー配分への配慮が生まれました。
人のために尽くしたいという想いを抱えているとき、その気持ちが健康的な原動力かどうか、一旦立ち止まって考えてみるのもありかな、と思います。
わたし個人の憶測と考えにはなりますが、参考になる部分があれば嬉しいです。